第四章  大いなる意志

        - D A R K F O R C E S -   

  By.Hikaru Inoue 


IV



 ―― 話は十年と、幾つかの冬を遡る……。 ――

 それは、まだその国が『北レトレア』と呼ばれ、その勢力を、貧しい大陸の北側にとどめていた頃の時代。

 一部を永久凍土に覆われた、痩せた北の大地。その厳しい風土は作物の成長を困難にした。
 ――一度の冷害が起こると食料の備蓄はすぐに枯渇し、その度に数万、数十万の規模で人命が失われる。
 飢えることの、血の苦しみ。
 口にするものもなく息絶えゆく我が子や愛すべき家族に、一切れのパンも与えてやれない己れの無力さ。
 神の無慈悲と呼ぶべき試練。
 全てが必死と呼べるその光景の中を、彼らは苦渋を舐めながらも『強く』、自身にそうあることを言い聞かせることで苛酷な環境を生き抜いてきた。
 ……故に北方の民たちは、南に広がる豊穣の大地に憧れを抱いた。

 豊かな地、『南フォーリア』。

 そこには、飢えという地獄とはまるで無縁の、無限の大地の恵みがある。
 ――そして北方の民は、冷害という厄災が降り掛かる度に、飢えや苦しみを乗り越える為、幾度となく南への侵略戦争を仕掛けた。
 それは家族を、愛する者たちを守る為の戦い。
 ……祖国の人々に、暖かなスープと一切れのパンを齎らす為の戦い。

  『彼らの正義はそこにあった』

 二百万王国人民の胃袋を満たす為の聖戦。
 北レトレアの兵士たちは、その目的の為、根拠すら得ることの出来ぬ、無謀とも呼べた『勇気』で己れを奮い立たせ、強大で豊かな南への侵略を繰り返した。
 ……ろくな装備も、十分な食料すらも得ることも出来ずに、祖国を旅立つ若者たち。
 その前に立ちはだかるは、大陸最強の獅子王。
 屈強なる数多の騎士団を有する、無敵にして無敗のウィルハルト聖剣王である。
 ……それは、すでに『敗北』という二文字の見えた戦い。
 それでも彼らはささやかな奇跡を信じて戦い、そして侵略の数と同数の敗北を大陸史に刻んでいった。

 ―― その渦中の只中に『少年』はいた。 ――





 まるで夢物語にも出てくるような、そんな美少女を思わせる可憐な容姿。
 その端正に整った顔立ちの中で一際輝く二つのルビーの眼差しはやさしさという光を周囲に振り撒く。長く繊細な絹糸のような赤毛を柔らかに背中へと垂らした、その少年の名は『エリク』。
 ……後に大陸の覇者となる苛烈王、エリク・レムローズである。

「お帰りなさいませ、お兄さま。本当に……無事で良かった、」
 その日の夕刻、壮麗な城の城門で、少年エリクは戦場から戻った二人の兄を、その両手を胸に当てまま優しい言葉で出迎えた。
 ……少年の歳の頃はちょうどカローラと同じくらいか、やや上といった感じで、誰の目にもこのエリクの可憐な容姿は、愛らしい一人の美少女として映った。
 見る者の気持ちを和ませる天使の微笑み。
 ……事実、彼が王子なのだと念を押されなければ、誰もがこの城の美姫だと信じて疑わなかった。
「フハハッ、無様にもまた生き残ってしまったよ。南フォーリアは強い、いつもウィルハルト聖剣王一人に我らはしてやられる」
 上の兄ローヴェントが馬上からエリクにそう言うと、続けて下の兄カルサスが言った。
「城に帰ればこうやってエリクが迎えてくれる。我ら二人はそれを楽しみにここまで帰ってきた、また一段と美しくなったな、エリク」
「もう、カルサス兄さまったら、からかわないで下さいッ!!」
 エリクはその頬を薔薇色に染めて、恥ずかしげに顔を背ける。言葉遣いそのものも少女っぽいエリクが、春告鳥のような澄んだその声で強く否定しても、説得力などまるでない。
 二人の兄はそのエリクの様子を見て、揃って顔を見合わせると、馬上で大声を出して笑い出した。

  ハハハハハハハハッ!!!

「――ん、……これは失礼した。さて、我ら北レトレアの誇る美姫エリク様が用意してくれているであろう宴の席に、招かれるとしようではないか。なっ、カルサス」
「異議はありませんぞ、兄上」
 二人の兄が阿吽の呼吸で互いを見合わせてそう言うと、エリクはその馬上の二人を仰ぎ見て元気にこう言った。
「ささやかなものですよ、お兄さまっ。……でも、二人とも、いつになったら私のこと『弟』として扱ってくれるんだろう……」
 長兄のローヴェントは言う。
「そのお美しいお顔に、ヒゲでも生えたらな」
「ははっ、そりゃいい! 北レトレアの美姫にはヒゲが生える、かっ」
「もうっ!!」
 この北レトレアの三兄弟は、大陸の半分を占める大国の王家に生まれし者たちでありながら、互いが互いを争うことなどまるでなく、その兄弟の絆の深さは人も羨むほどである。
 この結束力が、北レトレアというシンボルに付き従う貴族や諸侯たちの心を安堵させた。
 長兄のローヴェントは知略に秀でたこの国の皇太子で黒髪の好青年。彼の冷静なる決断が、北レトレア軍の瓦解を幾度となく救った。
 次兄のカルサスは武勇に優れ、兄を敬愛する長身の壮漢。その剣の腕は、ソードマスターと呼ばれる北レトレアの剣聖・ハイゼンに、ウィルハルト聖剣王とも互角に戦い得るのではないかと言わしめるほど。

 ……そして、末弟のエリクは二人の兄の『愛』を一身に受け、その慈愛に満ちた温和な人柄と類い稀なる容姿から、身分を問わず人々に慕われた。

 ――だが、皮肉なことにその二人の兄たちのエリクへの強き愛情が、この三兄弟を永遠に引き裂くきっかけとなったのである。
 ……エリクは二人の兄たちにとって、あまりに魅力的な存在だった。
 純真無垢な天使と、……そう形容して然るべき光輝に満ちた存在。

 ……数年前に起こったある日の夜の出来事が、その二人の兄たちのエリクに対する意識を根底より覆したのだった。
 王と王妃の話を偶然耳にしたローヴェントとカルサス。
 二人は今まで秘められていたエリクの『秘密』をついにその夜、知るに至ったのである。

 ―― ひた隠しにされ続けてきた真実。 ――

 ……実は二人の兄弟とエリクの間に血の繋がりはなく、しかも……エリクが『男子』ではないのだと。
 ――それは、光届かぬ極寒の地に注がれた一条の光。
 太古の習わしによってエリクの存在は、王の口からこう呼称された。

  『天使』、と。

 ……六極の神々により、人々を救済する為に使わされたという伝説の光の使徒。その存在は『人』の身を持ちながら人でなく、また性別もない。
 ただエリクのそれは、時を経るたびに明らかに女性のものへと変化を遂げていった。
 誰もが一目で心奪われる程に美しく、可憐に。 
 ――誰にも汚されず、『無垢』であり続ける為にはエリクは男子である必要があったのだ。
 ……少なくとも神の啓示を受けた時、王と王妃は、そう確信して十余年という歳月をエリクに王子としての道を歩ませた。

 ……二人がこの真実を知った時、二人の兄のエリクへの想いは、兄弟という作り出された偽りの枠を越え、さも当然の如く無尽蔵に、際限なく増幅されていった。
 誰もが、この世に類を見ないほどに美しく開花してゆく一輪の華に、心奪われぬはずもない。美しきものへの愛、憧れ。それは人として、ごく当然の本能というものだろう。
 故にエリクは王子でなければならなかった。
 少なくとも二人の兄、ローヴェントとカルサスにとって。

 ……そして、二人の兄たちが永きに渡る遠征から戻ったこの日の夜……。
 長兄ローヴェントは、エリクにその想いの丈を打ち明けることを決意するに至ったのである。
 彼の胸の奥には、辛く、厳しい冬を越えるたびに降り積もらせてきた、大地を深く覆う純白の雪のような、純粋で厚き一途な想いがある。
 エリクはそんな彼にとって、その白き大地を暗闇から銀世界へと染め抜く天の光のような、光輝に満ちた存在であった。
 神々の意志など関係なく、その意味で彼にとって、エリクの存在は『天使』そのものだった。

「……エリク。――私はお前のことも、その背に背負う重荷のことも全て知っているつもりだ。……お前がこの北レトレアの貧しき民たちに神々が齎らされた、最後の希望であることも、」
 エリクの部屋を訪れたローヴェントは、部屋を尋ねるなりそう切り出すと、冷静沈着な普段の彼とは明らかに違う、やや興奮気味の様子で、エリクのその雪のように白く細い両手首を強く掴むと、そのまま壁の方へと詰め寄った。
 窓辺から差し込む月光が、青白く二人の姿を照らし出す。
「……お、お兄さま!?」
 いつもの落ち着いた、思慮深くやさしき兄のイメージとはまるで様子が違うローヴェントの姿に、思わず狼狽えるエリク。エリクは怯えるようにして、そのルビーの瞳で兄ローヴェントの顔を見上げた。
 するとそこには、冷静という言葉とは遠くかけ離れた、強引で、そして必死に勇気で己れを震い立たせているかのような、そんな黒い二つの眼差しがあった。
 だが、その真剣な眼差しに曇りなどない。
 朧気な月明かりに照らされたエリクは、少女というより少し大人びて映し出される。
 絶世という言葉は、まさにこのエリクの為に用意された言葉のように妖しく、美しく……。





「お兄さま……」
 その表情から何かを悟ったように、小さく言葉を洩らすエリク。
 ローヴェントは小刻みに震える口元から、エリクにこう告げた。……エリクの手首を押さえつけるその手にも力がこもる。
「…エリク、私はお前を愛している。……そう、愛してしまった。私は次期に、大国・北レトレアの国王となる身、その時、私はお前を妃として迎えたいと思う、…いや! ……そう願って止まない。――無論、周囲の反対は必至であろう。私の望むものは、父王や母上が最も恐れたことであるのは承知している。だが、私は大国の王位などより、お前ただ一人の為、その為に生きたい。……反対を押さえきれぬその時は、私はカルサスにこの国の玉座を譲っても構わない……」
 突然の兄ローヴェントの告白に、エリクの身体が反応した。エリクはその頬を薔薇色に高揚させ、ルビーの瞳を潤ませる。
 言葉を介してローヴェントの想いは、エリクのその胸を溶かすように熱く、ダイレクトに流れこんできた……。
 ……エリクは確かにこの兄、ローヴェントを敬愛している。
 だがこの時エリクは、それが異性に対する愛なのか、確信が持てないでいた。
 やり場のない想いがエリクの鼓動を高鳴らせ、さらにエリクを混乱させる。
「お兄さま、エリクは、あっ……」
 と、その時、
 ローヴェントはそのエリクの言葉を止めるように、ゆっくりと唇を重ねる。
 ……エリクは少しも抵抗することなく、瞳を閉じて兄にその身を委ねた。
 エリクはただ、この心から敬愛する兄を、ローヴェントを傷付けたくなかったのだ。
 普段、物静かな兄をここまで高揚させる想いを、エリクはエリクなりに理解していた。 ローヴェントがエリクの胸に手を伸ばすと、そこにはまだ未成熟ながら、小高い柔らかな感触を感じることが出来た。……その手からは、エリクの熱い胸の鼓動が伝わってくる。

「兄上……、エリク……」
 月明かりに浮かび出された二人のその姿を、開かれた扉の隙間からカルサスは見つめていた。
 今日に限って落ち着かない兄ローヴェントのことが気掛かりなカルサスは、その兄の後をつけるようにして、この部屋へと辿り着いたのであった。
 ――カルサスはその事をすぐに後悔する。
 この時のカルサスは、敬愛する兄と最愛の人エリクを同時に失う恐怖に、胸の張り裂ける思いだった……。


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