第一章  美しきもの 

        - D A R K F O R C E S -   

  By.Hikaru Inoue 


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 とくに出ていけと言われるわけでもなし、いつの間にかゼルドパイツァーの存在は、この古城の住人と化していた。
 静止する時の流れ。
 古城の一日はあくまで緩やかに過ぎ行き、一体、自分がこの城に何日居候を続けているのかさえわからなくなる。
 ……実際には、まだ十日ほどしか経ってはいないのだが。
 彼が忘れていたのは、もちろん時間だけではない。
 当初、この森に入った目的の事など遠い過去の記憶としてすっかり忘れ去られていた。
 そんな些細なことは忘れさせるに十分な世界がここには存在していたのだ。
 ここには、世に蔓延する『悪』という、ごく当たり前のものが微塵も存在してはいなかった。
 深窓の令嬢を思わせるような、神秘のヴェールに包まれた絶世の美女セリカと、常に明るさを絶やさない、ひまわりの花のような栗毛の少女カローラ。
 この見事なまでのシチュエーションを放棄して、花園と化した古城での夢の生活を捨てる勇気が、小物のゼルドパイツァーなどにあろうはずもない。
 いや! 仮にそんな野郎がいたとしたら、それは先天性の大馬鹿野郎か、人気のない山奥で霞を喰って生きているような仙人だ。
 ――悟り過ぎ。
 一度しかない人生、そんなチャンスが二度も巡ってくるという保障はないのだから。
「ういっく、ひっ。……オラァ、もしかして、幸せもんってヤツかぁ? んーーーっ」
 その日の夜のゼルドパイツァーは、カローラから貰った銘酒『姑殺し』のせいで、すっかり酔いが回っていた。
 今宵は満月の夜。
 古城は白い光に包まれ、見事に月映えしている。
 ゼルドパイツァーでなくても、月輪を肴に一杯ひっかけたくなるというものである。
「今宵は満月とくらぁ、――狼にでもなっちまうかぁ? ういっく」
 ゼルドパイツァーはそんな戯言をほざきながら、一升瓶片手にあの赤い扉のある石畳の廊下をふらついていた。
「んっ? おおおっ……」
 するとゼルドパイツァーは、そこで奇妙な唸り声をあげた。
 なんと、あの開かずの間から鉄錠がおろされ、両開きのズシリと重そうな扉が拳一つ分ほど口を開けているではないか!
「開かずの間、おかずの間……むふふっ、秘密の花園ってヤツかぁ!?」
 今夜のゼルドパイツァーは、ただでさえ欠落している理性が、その欠片まで失われていた。
 今や、彼の沸き上がる好奇心を押さえ付ける理性など何処にもない。

  カラン、コロロンッ……。

 ほとんど空の一升瓶を床に転がし、ゼルドパイツァーが扉を開こうとしたその刹那、あの日のカローラの言葉が脳裏を過る、『この森から帰れなくなりますから……』と。
「ふふん、元から帰る気なんぞ端からないわい!」
 今夜のゼルドパイツァーは、何処までも強気だった。
 ……そう、タチの悪い酔っ払いのおっさんの如く。
 そうしてゼルドパイツァーは、躊躇うこと無くその手を扉の方へと延ばした……。



 そこは、この古城でいう所の玉座の間であった。
 縦長の室内には、一本の血の色をした絨毯が玉座の方向を指し示すように延びている。 左右の壁には窓一つないが、高い天井に口を開く水晶の天窓によって、室内は月明かりの十分な光量で青白く満たされている。
 ゼルドパイツァーは、吸い寄せられるように、その玉座の方へと足を運んだ。
「なっ……」
 淡い月明かりが、黒く重厚な甲冑を身に纏う玉座の主の姿を照らし出す……。
 玉座の脇には巨大な戦斧が立て掛けられており、顔を全て覆い隠す漆黒の仮面は、まさに悪魔の形相そのものであった。
 ……見る者を威圧する漆黒の悪魔。それを目のあたりにしたゼルドパイツァーは、一気に酔いのさめる思いがした。





「セ、セリカさん?」
 ゼルドパイツァーは暗がりの中、その玉座の影に隠れるようにして、腕木に顔を伏せ蹲るセリカの姿を見つけた。
 その言葉に反応するように、セリカはゆっくりとゼルドパイツァーの方を見上げる。
 ……セリカのその瞳は銀光に満たされ、溢れる一滴の雫がその右頬を湿らせた。
「ふふっ、……約束を破っちゃ駄目じゃないですか」
 セリカは、母親が子供に諭すような柔らかな口調で優しく言うと、両目の目頭を人差し指で拭いながら徐に立ち上がった。
「……でも、いいんです。――こんなことであなたを責める気なんてありませんから」
 そう言ってセリカは、玉座に座る甲冑から、その漆黒の仮面を手に取った。
 この時、甲冑の主の中身が実は空洞だったことをゼルドパイツァーは知る。
「これは、……人々が魔王と呼ぶ仮面です。――そして仮面の主は十年前に死にました。……父はもう、この世にはいません」
 そう語るセリカは、思わず泣き崩れそうになる自分を隠すように、ぎこちない笑みを浮かべた。
 セリカの口から聞かされた『魔王』や『父』という言葉も衝撃的だったが、何よりもその悲痛なセリカの姿を見ているだけで、ゼルドパイツァーの胸はいっぱいになった。
「今ではもうこの仮面を継ぐ者も、私一人になってしまいました。――あなたが、その私の命を奪う為にやって来た人間の一人であることは知っています。――でも、私はもう流血を見たくないのです……」
 セリカはその漆黒の仮面を元の場所に戻すと、一本の銀の短剣をゼルドパイツァーを差し出した。
 セリカがゆっくりとその瞳を閉じると、溜まっていたものが銀の雫となって頬を流れる。
「これであなたの目的を果たして下さい。――私はもう疲れました……この魔王という重荷に」

        

「そんなこと出来っかよッ!」
 ゼルドパイツァーはセリカの手から短剣を奪うと、勢い良く床に叩きつける!!

  カキィーーーーーーンッ!

 短剣は激しく石畳を打って、暗がりの中へと消える。――高い金属音は、静まり返った室内にキーンという残響となって響いた。
「……ごめんなさい、ゼルドパイツァーさん。――私、わかっていました。きっとあなたならそうするだろうなって。……時々、そんな自分が嫌になります。――死ぬ勇気すらない私が、生きる勇気すら持てない私が」
 セリカはそう言いながら、小刻みに肩を震わせた。
 ゼルドパイツァーは、セリカのその凍える肩にゆっくりと手をやる。
「ゼルドパイツァーさん……」
 セリカは力なくゼルドパイツァーに寄り掛かると、今まで溜めていたものを全て吐き出すように、その胸を涙で濡らした。
 暫しの沈黙が二人を包んだ後、ゼルドパイツァーの背後から低い声が響いた。
「魔王様ニ刃向ケレバ、私、オ前殺シタ」
 振り返ると、そこには巨大な戦斧を手にした竜人、フランチェスカが立っていた。
 しかも、その存在を全く気配を悟らせることなく!
 どんなに油断していたとしても、一流の剣士であることを自負するゼルドパイツァーは、そんな経験は一度として味わったことはなかった。
 ……それは、そのこと自体が『死』を意味するからである。
「ごめんね、フランチェスカ。私……もう、平気だから。――あなたが支えてくれたから、私、戦ってこれたんだものね」
 セリカはそう言うと、フランチェスカを安心させるように微笑んだ。
 もう、取り乱した様子はない。
 そこにあるセリカの強さを、ゼルドパイツァーは強く感じた。
「魔王サマ、モウ元気。――オ前ニ、礼言ウ。……アリガトウ」
 そう言い残すと、フランチェスカは赤い扉の奥へと姿を消した。
 そのズシリと響く重い足音が、フランチェスカの中に敵意が消えたことを証明するように、広い石作りの室内をこだました。
「オレ……まだここにいていいのかな」
 セリカにそう尋ねるゼルドパイツァーの顔は、何処か不安げにも見える。
 そのゼルドパイツァーに、満身の笑みを浮かべてセリカは答える。
「はい。……あなたがいたいと思うなら、いつまでも」





 この微笑みを一生忘れない、ゼルドパイツァーは心の中にそう強く思うのだった。

 そして、彼の戦いはこの日から始まる。

 それは、辛い戦いの日々。
 だが、振り返ればこの天使の微笑みに逢える。
 彼はそのことを一度として後悔はすることはなかった。

  ――その笑顔を失った後も……。

 全ては、『漆黒の魔王』の名の元に。

 彼の長きに渡る戦いの日々は、この夜、こうしてその幕を開けたのだった……。


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