第四章
      

  - 野心と命と天秤と -

  By.Hikaru Inoue 


I






 季節が春から夏へと移り変わろうとする、今。

 まだ、この時点で北東の苛烈王挙兵の報は、皇都レトレアのレミルには届いてはいない。
 水面下でかつての反皇帝派が手を取り合う中、レミルはノウエル美髪王領と皇帝直轄領の新支配体制確立に、忙しく動き回っていた。
「ふう、これでよしっと」
 レオクス鉄槌王の影響か、レミルは以前ほど、肩を張っているというような印象が少なくなっていた。もちろん、家臣団の前では毅然とはしているが、とくに執務室で一人の時などは、割と地を出していることも多い。
「さてと、仕事もこのくらいにして、ちょっとティータイムっと」
 レミルは侍女に用意させたレトレアンティーのカップを手に、鼻歌などを歌っている。こんな余裕はここ一年ほど見せたことのない姿だともいえた。
 目前に迫る苛烈王という名の嵐。
 その嵐の前の静けさを保つかのように、皇都レトレアも、レミル自身も、いたって落着き払っていた。
 最近はレオクス鉄槌王の活躍のせいで、エル・ランゼの影も薄い。
 別にファザコンというわけでもないのだが、人を年や外見で判断しない、根が純真なレミルにとって、初老であるとはいえ、レオクス鉄槌王の存在はポイントが高いといえた。
 それがレミルの良さなのか、単に世間知らずで面識不足のせいなのかは定かではないが、レミルが祖父である叡知王を理想としている以上、彼女にとって、義を貫き、背中で人を引っ張っていくような人物は、間違いなく魅力的であるに違いなかった。その点、何処ぞの若いだけが取り柄の伯爵閣下などは、明らかにその対象外である。今頃、その伯爵閣下は噂もされないくせに、くしゃみなどをしているにちがいなかった。

  コン、コン……。

 と、大好物のマロンケーキにフォークを入れようとしたレミルを、ドアの向こうの人物がコン、コンッとノックして止める。慌ててレミルはだらしなく弛んだ顔を正して、こう答える。
「何用ですか、」
「マンセル伯エリオットであります、」
 その人物は、ノウエル美髪王領の変で、レミルの軍門に下り、心よりレミルに忠誠を誓う前ハイゼン男爵、現マンセル伯であった。
「これは、マンセル伯。どうぞ、御入りください」
 レミルは丁寧な口調でそういうと、テーブルのケーキを横に片付け、マンセル伯を面会用の長椅子に座らせると、自らも伯に向かい合うように立派な皮張りの椅子に腰掛けた。
「どうなされました、あのような北方から」
「急用でしたので、連絡もせずにぬけぬけと罷り越したこと、ご容赦くださいませ」
 そう言うマンセル伯の顔の緊張が、レミルにただならぬ気配を伝える。
「……どうやら、その慌て様。たたごとではないようですね」
 マンセル伯がごくりと唾を飲む。そして、ゆっくりとこう答えた。
「……北東の苛烈王が挙に及んだようです。その数、五万。大地を埋め尽くすその軍勢に、北のハイランド北海王、そしてフォリナー慈愛王までが同調した模様の由にございます」
「そうですか」
 レミルの反応は、マンセル伯の期待を裏切る冷やかさだった。別に驚きもせず、まるで事前に事を知り得ていたかのように、落着き払っている。
「我がノウエル美髪王家は、たとえ帝国のサイフ、皇帝直轄領を預かるとはいえ、総動員しても、約、一万。たとえレオクス鉄槌王の助力が得られたとしても、国境防衛の鉄槌王軍はその半分も動かせますまい。よく集めて、我が方合わせ二万。敵の三分の一にも及びませぬ。しかも、相手は現選帝侯制度に不満を抱き、帝国内最大の勢力を誇る北東の雄、レムローズ苛烈王です!!」
「伯は、負けると仰りたいのですか? 確かに倍差以上を付けられてはまず勝負になりません。それが、四倍となると圧倒的戦力差でしょう」
「それも、平原での会戦に及べばのことです。この鉄壁のドーラベルンを以てすれば、四倍の兵力差も補えます」
 マンセル伯の意見は理に適っていた。が、その意見はレミルの眉をひそめさせた。
「では、自らの保身のみを計り、不可侵たる皇帝直轄領を、皇都レトレア、ドーラベルンの民を犠牲にして、この城に篭もれと?」
「正面決戦ではまず我が方に勝ち目はありません! それに、ここは皇帝直轄領。いくら苛烈王でも、自らが支配すべき土地に手荒な真似はいたしますまい。……ノウエル王家は魔王軍との決戦で最も多くの犠牲を引き受けました。大戦前ならば、三万、いや五万を超える兵の動員も可能でしたでしょうが、現時点で、我が王家が頼れるのは西の鉄槌王のみ。せめて……ウィルハルト聖剣王の助力があれば、」
「マンセル伯ッ!!!」
 レミルは怒りをあらわに立ち上がった。そして、マンセル伯を見据えてこう言う。
「この地は神聖にして不可侵たる皇帝の地。その地を蹂躙されるくらいならば、野戦で討ち死にした方がまだましというもの。何の為に我らは大同盟を成し、魔王の脅威を退けたと御思いかッ!! 全てはこの地を、皇都レトレアを拠り所とし、最後の決戦場をこのドーラベルンと定め、我らは戦ったのではありませんか。この地は、我ら帝国国民が、いえ人類が人として生きて行くために必要な、いわば象徴なのです!! それをこの愚かな選帝侯同士の同士討ちなどで汚してはなりません。例え、ノウエル王家の未来がここで絶えようと、人が生きている限り、ドーラベルンが人々の心の象徴であり続ける限り、再び魔王が降臨しようとも、人は一つになって再び戦える。そのように生きるべきではありませんか、我ら王族や貴族たるものは」
 マンセル伯はこの演説に爪先から脳天まで稲妻がかけ昇るような衝撃を覚えた。
 この誇り高き王の為なら、この身をいつ敵の矛先にさらしても構わぬというような覚悟を与えてくれる、そんな言葉を聞いたのだ。
 と、同時にこうも思った。この言葉を聞かせれば、義を以てなる聖剣王が動かぬハズもないと。
 しかし、レミルにはその気がない。
 これは、マンセル伯にはどうすることも出来ぬことだけに、それだけに悔しくもあった。