第三章
      

  - 渦中へ -

  By.Hikaru Inoue 


VII






 ノウエル領を平らげたレミル。
 そのレミルは、今や皇帝直轄領を預かり、ノウエル領を守護するという、二つの選帝侯領を手中に収める大選帝侯となった。その実力はともかく、勢いだけで言うなら北東の苛烈王や南の聖剣王にも引けを取らぬ帝国中央の脅威である。当然それは他の選帝侯には面白いはずもなく、唯一それで得をしたという人物は西方の雄、レオクス鉄槌王ぐらいなものであろう。
 そしてレミルは先の戦役の最大の立役者であるレオクス鉄槌王を皇都レトレアへと招き、彼を含む三百名の家臣団を最大限の礼法を以て皇城ドーラベルンへと迎え入れた。
 皇都は祝賀ムードで沸いた。
 何せ、頼りない姫君が治めていたこの皇都に、帝国本土を幾度となく魔王軍の脅威から守り抜いた歴戦の雄、レオクス鉄槌王が、今度は自分たちの都を守るためにこの地へとやって来たからだ。レミル自身はその絶世の容姿もあってか人気だけは人一倍であったが、そのか細き手の内に皇都の命運が委ねられているとなると、民は不安を抱かずにはいられなかった。それは比較対照である先の叡知王が帝国一の大人物であったからでもあるが、なにより聖剣王家との不仲が民の不安の最大の要因でもあった。
 皇都レトレアを含む皇帝直轄領の領民は、新皇帝が選出される度にその主人が変わるという非常に流動的な人々ではあったが、叡知王の支配が三十年に渡る長きに及んだせいもあって、その民たちの大半は、ほぼノウエル王家以外の主人を知らぬ世代に移行しているというのが現状である。当然、レミルのことはその誕生から今日に至まで、全てを見てきたわけであるし、ノウエル王家への信仰は今に至っても強烈である。
 だからこそ、先の叡知王以来、孤立したといっても過言ではないそのノウエル王家に救いの使者が現われたのであるから、これは皇都の人間でなくとも歓迎しなくてはいられなかった。
 レオクス鉄槌王の勇名は先の叡知王の時代から知らぬ者などいない。
 その鉄槌王は一応の形式ばった玉座の間でのやりとりを終え、家臣団に解散を命じた後、自らは一人、レミルとの会見に望んだ。
 レミルが会見の場に選んだのは母オーユが愛した白薔薇の間という王宮の三階にある一室であった。
 そこはまた、オーユが独身時代を送った部屋でもある。
 その部屋にはレオクス鉄槌王の美しき時代の記憶とオーユの残像が今も鮮明に残っていた。
「お待ちしておりました、レオクス鉄槌王」
 白薔薇の間で出迎えるレミルの光景が、あの時のオーユに重なる。
 全てが同じだった。
 調度品も、白のレースのカーテンも、
 芳しきレトリアンティーの匂いも、決して派手ではない白い絹地のドレスも、
 そして眩い光に照らされた、その愛らしき笑顔も……。
 自分が望んでも手に入らなかったささやかな、そして何よりも温かみに溢れた幸福。
 レオクスが望んだのは皇帝の椅子でも王という権威でもなかった。彼の戦う理由がそこにはあったのだ。
 花園を守るための戦い、それがこれまでの彼の人生であった。
 レオクスはこの光景に言葉を失わずにはいられなかった。
「うふふっ、がんばって、すぐりのケーキ焼いてみたんです。少し、ばあやに手伝ってもらっちゃったんですけど、ネ。今すぐ、お茶を入れますね」
 レオクスは一言の言葉も出す事無く、レミルの用意した小さな三人用ぐらいのテーブルに着いた。無論、このテーブルにも見覚えがある。自分の右で笑う、邪魔な若きウィルハルト聖剣王の姿も、昨日の事のように思い出せる。
 レオクスは喋らなかったのではない、喋れなかったのだ。また、そうせずとも心地よさが気恥ずかしさを吹き飛ばしてくれたし、何より好物のすぐりのケーキを前に、いらぬ言葉は不粋であった。
 レミルはレトレアンティーをカップに注ぐと、ケーキを不器用にカットして、自分も席に着いた。その手付きはレオクス鉄槌王の笑みを誘った。仕草までが、まさにオーユそのものであるのだ。
 レオクスはともかく場の雰囲気を楽しむことにした。王としての威厳や、選帝侯としての責務など些細に思わせる空気がそこにはあったのだ。
 愛らしさを微塵も隠そうとせず、本音で冗談を言って雑談するレミルに、思わずレオクスも冗舌になった。
 ……こんなに話したのは何年ぶりになるだろう。そして、レミルは一言も帝国のことなど口にしなかった。
 レオクスはこんなに時間が惜しい経験をしたのは久しぶりだった。落ちかけた陽が、また昇ればいいとさえ思った。
 しかし、時間(とき)は止まることを知らない。楽しきこの団欒の時間も、窓辺から突き刺してくる赤い夕陽と共に終わりを迎えようとしていた。
「こんなに話したのは、本当に何年ぶりだろう。本当に……楽しい一時だった」
 レオクスは十二分に満足していたが、それだけに終わりを思うと淋しさが増して感じられた。
「よかった、こんなに沢山、レオクスと話せて。私、嬉しいな。だってみんなが、思い出に変わっていくのに……あなただけは私の傍にいてくれたから」
 刹那、レミルの表情が陰る。
「レミル……、」
「ありがとう、でももう十分なぐさめられたから、きっと大丈夫だよ」
 レミルの表情に笑顔が戻る。が、レオクスにはそれが作り笑いのように思えてならなかった。
「わたし、誰にも負けない、誰にも頼らない立派な選帝侯になってみせます。おじいちゃまより立派な……おじいちゃま、」
「頼っていい」
 レオクスの言葉に、レミルはそのアイスブルーの瞳を大きく見開いた。レミルの柔らかな金糸の巻き毛に、夕陽の黄金が金の河のように流れる。
 レミルは込み上げてくるものを堪えるのに必死だった。ある程度、自分が母の手記を元にオーユを演じていたのはわかる。でも、この気持ちは演じて演じきれるようなものでは到底なかった。握った細く小さな両手を、震えながら押さえた。強く……。
 レオクスはそんな健気なレミルをその腕に抱き締めたいと思った。しかし、どうしてもあの時のように、最後は武人としての自分がその感情を押さえ付ける。

  と、その時!

「……レミル」
 抱きついたのはレミルの方だった。頭一つ身丈の違うレオクスのその大きな身体をレミルは強く抱き締め、その胸を大粒の涙で濡らした。
 祖父を失ってもうすぐ一年になろうとしていた。それからのレミルは、一人だった。今の今まで、ただの一人だった。強くなろうとした、なろうとはした。だが、肝心なところで強くなれない自分が情けなかった。そして、レオクスを騙し、手のひらの上で操ろうとさえ思っていたそんな自分が、それ以上に情けなかった。それは、人の善意や好意を利用とする、そんな汚い、薄汚れた自分に対する涙だったに違いない。
 レオクスはそんなレミルをそっと、優しく抱き留めた。……レミルは暖かかった、そしてこれが自分の手にすることの出来なかった温もりであることも知っていた。
 レミルはレオクスの胸に顔を埋めたまま言う。
「……わたし、必ず、勝ちます。勝ち続けます。そして、二度と失わないものを手に入れます」
「失わないもの……皇帝位、」
「いえ……少し違います。私がこの手に抱き上げるその子こそが、次の皇帝となるのです。私は皇帝の母となります。――そして、その父親となるは、フフッ……あなたかも知れません、ね」
「!?」
 その言葉はレオクスには強烈だった。そして、あの日の密約の時の、レミルの言葉を思い出す。
 その対価は、この『我が身』。

 この時、レオクス鉄槌王の麗しき姫君に対する信仰は、絶対のものとなる。
 そして、レミルはすでに帝国八領土の内、その三つを手中に収めたといっても過言ではなかった……。