第三章
      

  - 渦中へ -

  By.Hikaru Inoue 


V






 三千の蒼き軍団が二つの軍旗を掲げ、その矛先が一斉に天を突く姿は、まさに圧巻であった。
 蒼天の空の元、風にはためく二つの軍旗。一方は、ノウエル王家の紋章、『桐』の紋が刻まれた蒼き軍旗。そして、もう一方は、神聖レトレア帝国の紋章、俗に皇帝旗と呼ばれる『菊華』の紋が、太陽の如く刻まれし純白の御旗であった。
 レミルは反乱軍を鎮圧するにあたって、迷わずこの皇帝旗を持ち出す。
 皇都レトレアを一時的にとはいえ、その身に預かるレミルには、皇帝直轄領の膝元を騒がすレトレアの反乱軍に対し、その太陽の御旗に掲げる資格があった。
 まさにその御旗に向かう者、全てが朝敵の烙印を押された賊軍であり、神聖レトレア帝国そのものを敵に回すという、そんな絶大とも呼べる見えない圧力を与えた。
 叡知王の時代、その蒼き軍の頭上に輝きし黄金の御旗を知らぬ者など、少なくともこのノウエルの地にはいない。
 つまりそれは、賊軍となったマンセル伯爵軍の兵士たちに、帝国という巨大な『力』の象徴として、強烈にその瞳に奥底に飛び込んできた。その神々しさたるや、まさに天空高く光り輝く太陽を直視するが如くである。
 その点において、レミルらノウエル美髪王軍は、戦わずして対峙するマンセル伯爵軍に、機先を制したといえた。正面兵力で倍差あるマンセル伯爵軍より、僅か三千のノウエル美髪王軍の方に、勢いがあった。
「何を怯える! 我が方はあの小娘の倍の兵力なのだぞ」
 そう味方の兵を叱咤するマンセル伯爵軍副将ハイゼン男爵の声も、皇帝旗に輝く太陽に怯える総大将を前に、その勢いを失速させる。
「伯は何を迷っておられるか!? 今こそ、突撃には絶好の機ですぞッ」
「き、貴殿には、あ、あの叡知王陛下の御旗、菊華の御紋が、め、目に入らぬのか」
「なればこそ、向こう側にある流れを今、貴方の一声で、こちらへと呼び込むのです!! 決起した時より、賊軍の汚名は覚悟の上ではありませぬかッ」
 どんなに優秀な腹心を得られても、マンセル伯の思考は、始めから攻勢というより、守勢にあった。それは、要塞化した辺境という揺りかごが伯をそうさせただけで、伯は初めて殻の外に出たその時、皇帝旗を前に、己れが朝敵という名の賊軍であるということを思い知らされたのであった。
 そして、マンセル伯はハイゼン男爵の進言を退け、レミルの出方をじっと窺うことにした。
 それはマンセル伯が、唯一の勝機を逃した瞬間だった。
 ハイゼン男爵は、伯に失望し、この男が周囲の勢いに乗せられただけの田舎モノであることを痛感した。そして、ただ伯の甥というだけでその暴挙に荷担せざるを得ない立場へと追い込まれた、己れの腑甲斐なさを呪った。
 男爵はこの時、単独で千五百余の手勢を動かすことを決意し、ひそかにその意を左翼に陣取る自軍に伝え、その準備にあたらせた。
 左翼が動けば、本体も動かざるを得なくなる。男爵はそれに賭けたのだ。
 その命令は、即座に左翼へと伝わり、左翼全面に陣取る三百騎の騎兵の軍馬の嘶きが、次第に騒がしくなる。
「ハイゼン男爵、貴殿の軍が何やら騒がしいのう」
「では、見て参ります故、失礼致す」
 この機にハイゼン男爵は、一気にノウエル美髪王軍に攻勢をかける心算だった。
 しかし、その男爵よりも先に攻勢をかけたのは、その前面の皇帝旗の元、馬上で剣を抜く、蒼き甲冑の少女だった。

  ドドドドドドドォォォォォォォオオッ!!!

 大地を割るような轟音が、マンセル伯爵軍の後方に響き渡り、小高い丘を越え、黒き騎馬の群が、怒涛の勢いで押し寄せる!!
「あ、あの旗は『鷹の羽』の紋!? レオクス鉄槌王の鉄の騎士だっ!!」
「五百、千、いやもっとだぞッ! どうして、チークゴの向うでゲイラート侯と張り合っている鉄槌王軍が、こんな所に!?」
 そんな兵士たちの叫びが、マンセル伯爵軍全体を混乱に陥らせる!!!
「チッ、小娘にしてやられたか! 鉄槌王の狸めッ」
 ハイゼン男爵はそう吐き捨てると、まだ混乱の浅い左翼に戦闘を告げ、事前の準備が功をそうした形となり、すぐ左翼を後方の敵へと取って返した。
 自らが騎兵隊の先頭に立ち、マンセル伯爵軍の全軍崩壊を防ぐために決死の突撃を試みるハイゼン男爵。
 レミルは、この機を待ちわびたように、ノウエル美髪王軍全軍に突撃の号令を下した。
 後方の鉄槌王軍、正面の美髪王軍に挟撃されては、所詮、田舎侍のマンセル伯爵軍など、もはやレミルの敵ではなかった。しかも、後方に迫る鉄の騎士団は、屈強なるレオクス鉄槌王軍にあって、まさに最精鋭と呼べる最強の機動部隊『黒の鉄騎団』であった。
 数も、騎馬軍団でありながら三千を数える大部隊である。
 大地を震わせながら、海嘯となって押し寄せる三千の鉄騎兵に対して、ハイゼン男爵の決死の防波堤など、波打ち際に築かれた砂の城でしかない。
 マンセル伯爵は、ろくに剣を交えることなく、あっさりと敗北を認め、手勢の五千の兵力をほぼそのままに、レミルの軍門へと下った。
 これで、レミルのノウエル美髪王軍は、レオクス鉄槌王より派遣された鉄の騎士団との合流も合わせ、一万を超える大軍へと膨れ上がった。
 そして、勝利に沸くノウエル美髪王軍の帷幕の中に、その抵抗を最後まで続けたハイゼン男爵が、帷幕の中央に座する蒼き甲冑の少女の前に引き出された。
「反逆者めッ」
「ノウエル王家への恩顧をも忘れたか、辺境の田舎者が」
 陣中では、そんな罵声が無数に飛び交い、敗戦の中、意気消沈するハイゼン男爵に追い討ちをかける。
 それでも男爵は、両腕をきつくロープで縛り上げられたままの姿で堂々と、レミルの眼前に立った。
「痴れ者めッ」
「静まれッ!」
 レミルは強い口調で一堂の声を差し止めると、徐に立ち上がってハイゼン男爵の前で兜を脱いだ。……黄金の髪の細い繊維が、蒼い甲冑の上を流れる。
「余がノウエル美髪王、レミルである。男爵に会うのは、今度が初めてであるな」
「……陛下にあらせられましては、若く、そして美しくあられますな。武人としての陛下の先程の用兵の手腕、このハイゼン、感服致す所であります」
「恐れ入る」
 そう言うとレミルは脇差を抜き、ハイゼン男爵の両手首をきつく縛る縄を切り落とした。
「……」
「このような物に縛られていては、ロクに話も出来ぬであろう」
 レミルのその姿に、もはや少女の姿など、王者を前にしたまやかしでしかないのだと、ハイゼンは思い知る。そして同時に、己れは負けるべくして負けたのだとも知った。
「吸収した五千の兵士たちの指揮を、この余は、ハイゼン男爵、貴殿に委ねるつもりであるが」
 レミルのこの言葉に、ノウエル美髪王の陣中は響動めく。
「私に……でありますか、陛下」
「マンセル伯が戦死を遂げた以上、その指揮を執るのはハイゼン男爵、貴殿が適任であろう。くだらぬ理由で愛する故郷を後にした者らにとって、余、ノウエル美髪王は、所詮は中央の支配者でしかない。黒き鉄騎団との戦い、実に見事であったと聞き及んだ。共に戦う同志として、彼ら五千名の命に責任を持てる者は、同郷の貴殿以外にないと、余はそう考るが」
「……陛下は、この裏切り者の反逆者に全軍のおよそ半分にも及ぶ兵力を御与えになるというのですか」
「その方が、我が軍への編入がスムーズにはかどるというもの。時を金で買えるのなら、余はドーラベルンの金倉を全て開け放っても構わぬが、それは無理な話であろう?」
 そう言って微笑むレミルに、偉大なる先王の姿が重なって見える。
 陽が西へと傾いた時刻、その夕焼け色の空の元、溶けるようにはためく白の軍旗の中央に輝く黄金色の太陽。ハイゼン男爵の瞳には、この時初めてその旗が、沈まぬ太陽の姿に映ったという。
 ハイゼンはその皇帝旗の旗の元、レミルにこう返答した。
「大任、謹んでお受け致します。……陛下、ですがその前に、一つお尋ねしたき儀が」
「構わぬ、申してみよ」
「伯父は、……いえマンセル伯は、最後まで卑しく命乞いをしたのでありましょうな」
 レミルはその問いを、振り返りぎわにこう答えた。
「マンセル伯は勇者として、その家名を高めてこの戦場に散ったのだ。マンセル伯爵家の勇名は、後にその後継者たろう貴殿の働きによって、さらに高められることであろうな」
「……このハイゼン、身命をとして陛下の御恩に報いる所存であります」
「余の陣営に、さらなる勇者を迎えることを、余は誇りに思うぞ」