第二章
      

  - 争いは飽くこと無く -

  By.Hikaru Inoue 


I






 エル・ランゼが今だにその『伯爵号』を名乗り続けているのには、それなりの理由があった。
 本来ならば、選帝侯であるエル・ランゼは、南西エグラート王を名乗る資格を持つ。
 しかし、南西エグラートに暮らす民が知るエル・ランゼは、神聖レトレア帝国の一諸侯ではない。
 『夢魔伯爵 エル・ランゼ』なのだ。
 エル・ランゼとしては、帝国の軍門に下ったわけではなく、あくまで同盟者という関係で帝国の一選帝侯と相成ったわけである。
 まあ、帝国そのものが諸侯たちの大同盟国家であることを言えば、全ての諸侯が帝国との同盟関係にあると言えなくもないのだが。
 エル・ランゼはより一線を画した、いわゆる外様的選帝侯なのであった。
 何より、エル・ランゼ自身がその呼称、『夢魔伯爵』の名を気に入っていたし、夢魔伯爵といえば、かつての魔王軍、最強の四天王の名である。
 つまりは『夢魔伯爵』という呼び名こそが、彼、エル・ランゼ自身にとっての権威なのであった。より実力主義な魔族社会にとって、爵位や位階などは人間社会ほど重要ではない。ヴァンパイアが男爵や子爵では呼び名がしっくりこないのと同じで、エル・ランゼも伝統あるランゼ伯爵家の家名をランゼ大侯爵家などと、ロゴの悪いものにはしたくなかったというのが本音である。

 ……そして、その夢魔伯爵エル・ランゼは、皇帝の葬儀と八日に及んだ選帝侯会議を終え、南西エグラートの自領へと戻り、平穏な日々に退屈していた。
 南西エグラートはその支配者の名を取って、人々からは夢魔伯爵領と呼ばれる。
 初夏の陽射しが眩しい、七月のある晴れた日。
 エル・ランゼは美しき古城、夢魔伯爵城のある一室で、天窓から降り注ぐ白昼の陽射しを浴びながら、ゴロゴロとお昼寝をしていた。
 「むにゃむにゃ……おめでとうリリス……これで君も立派な三十路女だ……ぐぅぐぅ」
 夢魔伯爵城という不気味な名の割には、城内は十分な光量で満たされており、快湿、快適な空間がそこには広がっていた。いわゆるソレは、絵画や土産物屋の絵はがきにでも描かれていそうな華やかさや芸術性を合わせ持ち、同時に古城としての荘厳さも兼ね備えた天下の名城であった。花鳥風月、四季折々。陰気臭さなど微塵もない、白馬の王子がいかにも居てそうな、乙女心をくすぐる、そんな建造物となっている。 城は湖のほとりに聳える古城で、貯水池を兼ねた透明度120%の湖が、幻想的な雰囲気をも醸し出してくれる、とても優良な物件である。
 おかけで、皇都からこの城へとやってきた赤毛の少女は、そのあまりの佳麗さに胸踊らせ、日々落ち着きを見せずに城内をうろちょろとする始末だ。
 だが、赤毛の少女のその小さな胸を踊らせたのは、古城での美しい情景だけではなかった。
 そう、その赤毛の少女にとって、この城は、まさに白馬の王子様付きの夢の城だったのだ。
 ……ちなみにその白馬の王子様とは、昼間っから働きもせずに、日当たりの良い西側の部屋でお昼寝ブッこく、冴えない黒マントの男だった。
 寝てる間に腹も掻きゃーぁ、尻も掻く。
「うふふっ、伯爵様の寝顔ってカワイイ」
 美的センスの欠けらもないのか、はたまた痘痕も笑窪か、フリル付きの紺のメイド服にその身を愛らしく包んだ赤毛のおぼこ娘ルフィアは、ただ若いだけが取り柄のなまけ者を見て頬を赤めると、ニコリと微笑んで部屋の掃除を静かに始めた。

  キュッ、キュッ、キュッ。

 よほど綺麗好きなのか、ルフィアはエル・ランゼがごろ寝するソファーの前の木製のテーブルを、丹念に、何べん、何十ぺんと、白い布巾がよごれで黒く染み付くまでひたすら拭き続けた。ひょっとしたら、テーブルに塗られたニスまで剥がれ落ちているかも知れない。
 そんな、姑にすら一部の隙も見せない念の入れようで、古い木製のテーブルを新品同様ピカピカに輝かせた。
「ラララ、ラ、ラァーーン 」
 鼻歌混じりにルフィアのテーブル磨きは延々と続く。よほど物好きなのか、ルフィアの眼下には、常にその黒い物体が捉えられていた。
 まあ、ルフィア自身としては、自分の仕事中にその若さを無駄に費やす黒髪の怠け者が目を覚まし、「まぁ、君はなんて働き者なんだろう! 嫁さんにするなら君のような娘が理想だなぁ、よしよし」とまぁ、そんな返事を期待していた。
 だが、現実にはぐぅー、がぁーの寝息が返ってくるだけで、一向に起きる気配すら見せない。
「ふぅ……、」
 そんな中、いい加減、腕の疲れたルフィアは、フッと息を漏らしながら中腰の身体を起こす。すると右側の壁に置かれた鏡台には、間抜けな十五、六の赤毛の少女の姿が映し出されていた。
「……私って、バカね。誉めてもらう為に、何かをやろうだなんて。――神を信仰していた頃のあの献身的な私は、何処へいっちゃったんだろう、ね?」
 鏡の中のもう一人の自分にそう問い掛けるルフィア。
 気が付くと鏡の中のルフィアの顔は、自然といい笑顔になっていた。
「ウフフッ……今は、この伯爵様が私の神様だものね。私、伯爵様の為なら、どんなことでも頑張れるような気がするの。本当よ。――耳の長い魔人の人たちしかいないこの場所で、ただの人間の小娘の私がうまくやっていけるか、ずっと心配だった。でも、暗黒騎士のみなさんも、リリス様もとても優しくしてくれるの。そして、もちろん伯爵様も……」
 この時、部屋の入り口でカタッと音がしたのに、ルフィアは気付かないでいた。そしてエル・ランゼも、その音に気付かないフリをしていた。
 ルフィアは、過去を思い出すように鏡の自分に話を続けた。
「ようやく、私は自分の居場所を見付けたような気がする。だって、ここには優しさが溢れているもの。……孤児院で味わった孤独、眠れない夜。騙されているのを感じながら、生きているのは本当に辛かった。――でもね、伯爵様の寝顔を見ていると、私までなんだかお昼寝したい気分になっちゃう。お昼寝なんて、今まで一度もしたことないのに、ね。……私、たぶん、これが幸せだと思うの。心配ごとで頭の中がいっぱいだったのに、今はそれがどっかに飛んでいっちゃった」
 ルフィアのその嬉し気な声に、扉の隙間の向こうでは、カツッ、カツッと石畳に立つ足音と共に、青い色をした髪が流れていった。
 ルフィアはその後、部屋全体の掃除を始め、棚の花瓶から窓枠の溝の部分まで、ピカピカに磨き上げてこの部屋を後にした。
 ……途中、二度寝が出来ずに、寝たフリを続けたエル・ランゼは、結局、起きるタイミングが掴めずに、そのまま日が西の地平に沈むまで、じっとソファーに身を埋めていたのだった。
「……だって、間ってもんがあるっしょ」