第一章
      

  - 絆の花園 -

  By.Hikaru Inoue 


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 会見という挨拶まわりに振り回されるエル・ランゼであったが、昼頃になるとリリスの目を掻い潜り、一人、王宮の奥へとその姿を消した。
 目的はズバリ、お昼寝である。
 陽の光が蒼いグラデーションの頂点から降り注ぐようになると、天窓のない王宮の回廊は、一旦、曇りの日のように薄暗くなる。
 これはまさに、昼寝をしろとお日様がエル・ランゼを誘惑しているようなものであった。
「美味いメシより、絶世の美女より、今はふかふかのベットと枕が恋しいぜ」
 勝手を知らぬ王宮は、エル・ランゼにとって巨大な迷宮のようであった。
 何処へ行っても似たような場所ばかり。仮眠室のような部屋はまるで見つからない。
 行けども、行けども、回りは石柱と石壁。
 そうしているうちに、何時の間にかエル・ランゼは王宮深くへと迷い込んでしまっていた。
「……仮眠とりがミイラになる。なんて、シャレにもならんな。ところで、ここは一体、何処なんだぁーーーーッ!」
 普段から冴えていないエル・ランゼのおつむは、眠気のせいで山芋のようにドロリと溶けていた。方向音痴にも拍車がかかり、アリ地獄から這い上がろうとするアリのように、エル・ランゼは見つからない出口を必死に探していた。
 すでに昼寝という目的は、迷宮からの脱出に代わり、疲れたその身をさらに疲れさせる。
 しかし、エル・ランゼのしょぼいプライドが、城の召使たちに、「迷子になりました、出口は何処でしょうか?」という言葉を発することを躊躇わせた。他に聞きようもあるのだろうが、今のナメクジ並みの知能のエル・ランゼに、それを考えるだけの知恵はない。 歩き疲れたエル・ランゼは、大きな肖像画の掛かった壁の前に置かれた長椅子に腰を下ろした。
「よいしょっと、……はぁ、これからどーすんべ。リリスはきっと今頃、大噴火だろうし、この歳で迷子ってのもなぁ」
 あれこれ考えながら、壁の肖像画を見上げるエル・ランゼ。その絵に描かれていたのは、黒い髪を肩まで垂らし、厳しい表情で左手に本を抱え、右手に剣を握る、知的な髭の中年像だった。
「お隣、よろしいですか?」
 肖像画に気を取られていたエル・ランゼの脇から、突然、春告鳥のような若い女の声が聞こえた。
「あ、ああ、どうぞお嬢さん」
 エル・ランゼが振り返って慇懃な態度でそう答えると、少女は金髪の巻き毛を揺らしながら、エル・ランゼの隣に腰を下ろした。
 その金髪の少女は、ノウエル叡知王の孫娘、レミル姫だった。
 レミルは姫様らしい格好とはほど遠い、白い木綿のドレスにその身を包んでいた。
 これではエル・ランゼに、このレミルが皇帝のたった一人の孫娘であることなど、想像にすら付くはずもない。
 エル・ランゼは城の可愛いメイドぐらいの感じで、気安くレミルに話し掛けた。
「この城で私に声を掛けてきた人は、あなたが初めてですよ、お嬢さん」
 エル・ランゼは強烈な睡魔を気合いで吹き飛ばし、あくまで上品に振る舞った。誰だって、可憐な少女の前ではいいところを見せたくなるものだろう。これがオバハンや、三十路前の焦りにストレスを撒き散らすお局様相手なら話は別モノだが。
 とにかくエル・ランゼは、普段の下品さも、眠気と共に頭の奥底に封印し、爽やか120%の笑顔で武装した。
「あのぅ……夢魔、伯爵様ですよね」
「ええ、そうです。私は歓迎はされても、あまり人には好かれないようです」
「いいえっ、そんなことはありません」
 そう言うと、レミルは徐にエル・ランゼの手を握ってこう続けた。
「貴方様がいなければ、先の大同盟は破れていたとおじいさまに聞きました。私がこうやって平穏な日々を送れるのも、決起した同盟諸侯のみなさんと、それに貴方様のおかげです」
 そう訴える金髪の少女のアイスブルーの瞳が、エル・ランゼの胸をジンとさせた。心の底から自分を歓迎してくれる人間に、初めて出会ったのだ。この少女の微笑みは、エル・ランゼの岩の塊のような悪意を打ち砕き、その奥に小石のように転がる一グラムの善意を、巨大な岩石の山(チョモランマ?)のように増幅させるに十分だった。お年寄りにだって、喜んで席を譲りたくなる、そんな気持ちにさせられたのだ。
「いや、そんなに立派なものではありませんよ、お嬢さん」
 エル・ランゼは謙遜するように言うと、長椅子の前の壁に掛かった肖像画を徐に見上げた。
「あの男は誰ですか?」
「ノウエル……、叡知王ですね」
 レミルは短くそう答えて、祖父の肖像画を見上げた。
「叡知王ですか……。いつだって、人は支配する側とされる側に分かれ、支配する者の都合で、戦争は起こります。この叡知王だって、そうして生きてきた類の男でしょう」
 エル・ランゼはレミルの正体を知らずに、ノウエル叡知王を痛烈に批判する。
「この男の為に、きっとあなたも酷い目にあわされたのでしょう! 善人面した支配者こそ、裏で何をやっているかわからないものです!! 高い税に豪華な暮らし、老人となった今でも皇帝の座に執着し、人々を苦しめる! あなたも身勝手な戦争で両親を失い、やむなく、この卑劣漢の城に奉公させられるハメとなったのでしょう。いえ、何も言わなくてもわかります。あなたが今まで受けた酷い仕打ちを思うと、私はもう……おろおろおろ」
「そ、そうですか……、」
 レミルはそう答えて苦笑いをした。
 いまさら、祖父ですなどと言えたものではない。そうとは知らずに、先を続けるエル・ランゼだが、その言葉が途中で途切れる。
「ど、どうかなさったんですか?」
 レミルがそう問うと、エル・ランゼはゆっくりと振り返ってこう呟いた。
「ダメです……やっぱり、眠い」
「は、はあっ?」
 普段、なれない態度がエル・ランゼをドッと疲れさせたのか、エル・ランゼは半分ぼやけた顔で、レミルを見つめた。
「もうダメ……」
「えっ!?」
 そのまま、エル・ランゼはレミルの方へと倒れ込む。レミルは慌てて顔を赤くするが、エル・ランゼはその言葉通り、ぐっすりと眠ってしまった。
「ほ、ほんとに寝ちゃった……」
 ぐうぐうと寝息を立てるエル・ランゼに、レミルは子供の寝顔を見つめるような眼差しで微笑むと、そっと膝枕の上にエル・ランゼの頭を乗せて、その黒髪を柔らかに撫でた。「こんなところで寝ちゃうと、風邪をひきますよーーーっ」
 レミルは悪戯っぽくエル・ランゼの耳元で囁くが、エル・ランゼに返事はない。
「まぁ、いいか。……でも、面白い方。クスクス」
 王宮の中しか世界を知らぬレミルにとってこの長身の黒髪の魔人は、そのアイスブルーの瞳に非常に興味深く映ったに違いない。
 何者をも恐れぬ無邪気な子供の心を持った少女。
 その天使の膝の上で、悪魔は安らかな眠りに落ちた。
 結局、エル・ランゼが目覚めたのは陽が大きく西へと傾いた夕刻で、回廊の柱の間からは、赤い色をした夕陽の光が、絨毯のように流れ込んでいた。
 レミルはその間ずっと、膝枕の上に頬杖を付いてエル・ランゼを見つめていた。
 まるで、膝の上で眠る我が子を見守る、母親のように……。

 一方、予定をすっぽかされたリリス君は……。
「あの馬鹿、一体何処に行ったッ!! 睡眠不足はお肌の大敵なのよッ、キィーーーーッ!!」
 ……あれからリリスは、陽が沈むその時刻まで、ひたすら諸侯相手に頭を下げ続けたという。

          

 長かった一週間もようやく最終日を迎え、エル・ランゼは最後の会見に臨むべく、皇帝・ノウエル叡知王のいる王宮へと上がった。
 これは皇帝と臣下との謁見ではない。
 同じ選帝侯同士としての、対等な会見であった。
 会見には豪奢に飾られた一室が用意され、そこには知性溢れる老賢人と、金髪の巻き毛をした孫娘が席に座り、エル・ランゼの到着を待っていた。
「南西エグラート選帝侯。夢魔伯爵エル・ランゼ殿、只今、御到着なされました」
 高らかな召使の声が部屋の奥から響くと、装飾された木の扉はその重厚さを漂わせるかのようにギーーッと鈍い音を立てながら開いた。
 間も無く、床に敷かれた一本の赤い絨毯の上にリリスを伴うエル・ランゼがその姿を現わしす。
 そのまま会見の席へと繋がる赤い絨毯の上を、エル・ランゼは気取って徐に歩いてみせる。
 が、席の上で微笑む、見覚えのある少女の顔に、一瞬、その顔が引きつる!
 刹那、にこやかにこちらを見つめるレミルの顔に、あの日、回廊の肖像画の前でノウエル叡知王を痛烈に非難した記憶が、エル・ランゼの脳裏を過る。
 そして、その頬に冷汗。
 こうしてエル・ランゼの最後の会見は、気まずい思いの中、リリスを含む四者によって、円卓を囲むようにして始められた。
 会見場のテーブルが円卓なのは、叡知王の配慮によるものである。
 円卓には、席次の序列がない、などの意味があった。ぶっちゃけた話が、無礼講である。
 レミルの顔色が気になってしょうがないエル・ランゼの脇腹に、円卓の下でリリスの肘が飛ぶ。
「何、叡知王の孫娘に色目使ってるんですかッ!! 相手は仮にも皇帝ですよ。もっと、しっかりして下さいッ」
 リリスはエル・ランゼの耳元でそう囁くと、ニコリとレミルに微笑んで姿勢を正した。
 レミルにはそのぎこちない二人のやり取りがおかしくてたまらなかった。
 レミルが込み上げてくるものを必死で堪えていると、隣の老賢人は口を開いて穏やかにこう言った。
「ノウエル選帝侯、ノウエル叡知王であります」
 老賢人は自らを『皇帝』とは名乗らなかった。凡人であれば、皇帝という名の虎の衣を着て、交渉なりを有利に進めようとするものである。
 が、老賢人はあくまで自らを『選帝侯』の一人だと名乗ったのである。
 これに応えるように、エル・ランゼも自らを名乗った。
「南西エグラート選帝侯、夢魔伯爵エル・ランゼであります。皇帝陛下には、以後御見知り置きを」
 南西エグラートはエル・ランゼが魔王領から分割した、エル・ランゼの所領である。
 夢魔伯爵の名で呼ばれることの多いエル・ランゼの正式な呼称は、『南西エグラート選帝侯、夢魔伯爵エル・ランゼ』である。
 最も古い選帝侯と、最も新しい選帝侯の会見は、ごく当たり前の、だが礼法に適った挨拶から始まり、各々が意見を交換して、会見は刻を刻んでいった。
 その間、エル・ランゼは老賢人の知性の深さに触れ、この老賢人に対する認識を改めざるを得なかった。彼は決して強大なノウエル王領を背景に、成り行きで帝位を譲られただけの、無能な世襲の王ではない。彼の唯一の欠点を挙げるとすれば、それは老いという、人の背負う宿命であった。
 老賢人自身、その老いに追い詰められていることを感じている様子で、会見も半ばを迎えた所で、エル・ランゼにこう漏らしたのだった。
「叡知王の治世も、間もなく幕を迎えることとなりましょう。そうなれば、皇帝は空位となり、この孫娘、レミルが新たなノウエル選帝侯となった後に、選帝侯会議が召集されることでしょう」
 その瞬間、レミルが寂しげな眼差しで老賢人を見つめる。
「……おじいちゃま、」
 老賢人はその孫娘の頭をやさしく撫でると、話の先を続けた。
「夢魔伯爵殿、貴殿はこの帝国に新たな風をもたらす御方。その風向きがどちらへと流れるものなのか、この老人にはそれを知る術すらありません。ですが貴殿には、叡知王としてではなく、一人の、孫を想う老人として、残しておきたいことがあります。――もし今の帝国に嵐を抜けるだけの力がなければ、この帝国を滅ぼしなさい。それで貴殿が皇帝なり覇王なりなるのなら、それでも構わない」
 エル・ランゼは老賢人の思いもよらぬ発言に、一瞬、言葉を失った。
 誰もが自己の利益を優先し、エル・ランゼに握手を求めるも引く手数多の状況下の中、この老賢人は自らが生きた証でもある帝国を、悪魔に滅ぼしても構わないとそう告げたのである。
 そしてエル・ランゼは、老賢人の視線の先にある、金髪の巻き毛の少女を見て、その言葉の意味を理解した。
「承知しました、陛下」
 と、エル・ランゼは短く答える。
 エル・ランゼのその言葉が老賢人に届いた時、老賢人の顔は、孫を愛する老人の顔へと変わっていた。

 人は死を目前にすると、地位や権力よりももっと『大切』なものの存在に気付くのかも知れない。
 老人のその横顔に、そう想いを致すエル・ランゼだった。

          

 会見を終え、自室へと戻ろうとしたエル・ランゼのその足を止めたのは、金髪の少女、レミルだった。
 鉤型の回廊を曲がろうとしたエル・ランゼに、息も絶え絶え駆け足で追い付いてくるなり、レミルはこう言った。
「はぁはぁはぁ、……抜け出してきちゃった。私、もっとたくさん伯爵様と話したいことがあって、それで」
 レミルは少し苦しそうに胸を押さえると、頭一つ分上にあるエル・ランゼの顔を見上げる。
「元気がよろしいですね、レミル姫。先日は、事情も知らず失礼なことを申し上げてしまい、誠に申し訳ない」
 エル・ランゼの普段見せぬ慇懃な態度に、隣のリリスは白い目になる。
「ネコ……かぶってますね、エル様。ネコは耳だけにしといた方がいいですよ」

  ボスッ!!!

 刹那、エル・ランゼの裏拳ばりの空手チョップがリリスの脳天を直撃した。
 ……リリスはそのまま、パタリと冷たい石畳の上に倒れ、ピクリとも動かなくなってしまった。
 あまりの一瞬の出来事に、レミルには何が起こったのか全く理解出来なかった。
 リリスが突然、貧血か何かで倒れたようにしか、常人のレミルの瞳には映らなかったのだ。
 ――実はその間、十六発もの空手チョップがエル・ランゼの右の手刀から繰り出されており、リリスは脳震盪を起こして冷たい石畳の床に倒れ込んだのであった。
「あのぅ……大丈夫ですか」
 不安そうに尋ねるレミルに、リリスの返事はない。代わってエル・ランゼがその代弁をする。
「心配なさらないで下さい、レミル姫。この三十路女は、『先天性ぶっ倒れ症候群』なのです」
「せんてんせいぶっ……」
 舌を噛みそうな名前の病名に、レミルが言葉を詰まらせていると、エル・ランゼは軽快にこう続ける。
「そう、それは世界でただ一人、この三十路女のリリス君特有の奇病で、まるでギャグか漫才のように豪快にぶっ倒れるのです。しかも、所構わず迷惑な。まぁ、三十分もほおっておけば、石畳で頭が冷えて、元に戻ります。何もせずに、ほおっておいてやるのが彼女にとって何よりなのです。下手にツッコむと、今度は倍にしてぶっ倒れます。石畳のこの床を、まるで氷上のように華麗に滑り、きっと彼女は石壁にぶつかるまで止まらないでしょう」
「……大変な病気なんですね、」
 警戒心を持たぬレミルは、エル・ランゼのホラ話を鵜呑みにし、冷たい床の上に俯せに倒れるリリスを同情の眼差しで見つめた。
「さあ、レミル姫。ここで立ち話もなんですから、場所を移して、その話とやらを伺いましょう。彼女のことはお気になさらずに」
「あ……はい、」
 こうして二人はその場にリリスを残したまま、鉤型の回廊を左へと曲がっていった。
 ここが街中の路地であれば、リリスは馬に踏ん付けられるか、ガキどもの棒突きの的にされたことだろう。だが、残念なことにここは王宮の回廊で、上品な召使たちに発見されたリリスは、とある一室に運ばれ、贅沢にもふかふか羽毛ベットの上に横たわり、手厚い看護を受けたのだった。
 そして、リリスを残した二人が向かった場所は、レミルが丹精込めて育て上げたという、皇室の薔薇園だった。薔薇園には世界中から集められた様々な品目の薔薇が彩りを添え、赤や黄色や白や黒といった多彩なバリエーションのコントラストが、日中の陽射しの中に冴えた。
 エル・ランゼはレミルと共に薔薇園に置かれた白いベンチに腰掛けると、その薔薇園を包む高貴な香りに酔った。
「何と言ってよいか……とても美しい場所ですね。これを全部、姫が?」
 エル・ランゼの質問に、レミルは少し首を横に振って、ニコリと微笑んで答えた。
「ううん、私がしたのは半分くらい、かな。後は庭師の爺やがやってくれたんです」
 得意な話とあって、レミルのその赤い薔薇のように鮮やかな色をした唇は、次々に言葉を紡いでいった。
 レミルの薔薇に関する知識は庭師並みで、花のことなど何も知らぬエル・ランゼを関心させるに十分だった。
 この薔薇園の美しさは、レミルの絶え間ない努力によって保たれているのだと、レミルの話はエル・ランゼにそう物語った。見るものに与える一瞬の感動の為に、水面下でレミルはその白魚のような手の指先を、年中土に塗れさせているのだ。
 レミルは皇帝の孫娘という立場にありながら、農村の娘のような素朴さも兼ね備えた少女だった。気高い存在でありながら、決して気取らず、誰からも愛されるようなひまわりのような笑顔を振り撒いている。
 かの老賢人でなくとも、この純朴な少女を愛したくなるという気持ちは、エル・ランゼにも理解出来た。
 この少女を醜い選帝侯間の争いになど巻き込みたくはない。
 それはエル・ランゼとて、老賢人と想いを同じくする所だった。
「あっ、ちょっと待ってて下さいね」
 そう言ってレミルは徐に白いベンチから立ち上がると、花壇の中から上等に咲いた黒薔薇を選んで、その幹にハサミを入れた。
「これ、きっと伯爵様にお似合いだと思います」
 レミルは黒薔薇を手に取ると、そう言って黒薔薇をエル・ランゼの胸ポケットにさしてやった。
 柄にもなく照れるエル・ランゼ。
 少女に花を貰うなど、生まれて初めての経験である。しかも、その少女は金髪巻き毛の、蒼い瞳の美少女だ。エル・ランゼでなくても頬の弛む瞬間である。
 しかも、青髪三十の鬼ババアはここにはいない。
 エル・ランゼは、レミルのその細い身体をギュッと強く抱き締めてやりたかった。
 ……しかし、いきなりギュッ、では今まで無理に紳士的に振る舞った意味がなくなり、ただの野蛮人と相成ってしまう。
 ――あくまで紳士的に、エレガントに、そのレミルの可憐な身体をギュッとしてやる瞬間を、エル・ランゼはじっと、息を呑んで窺うことにした。
 と、急にレミルの顔に陰りが見える。
「ど、どうしたんだい、レミル姫」
 エル・ランゼは慌てて地声でそう尋ねた。
 するとゆっくりとベンチに座ったレミルが、俯き加減でこう漏らす。
「……祖父はもう、長くはありません。祖父が亡くなると同時に、私の居場所はここにはなくなってしまう」
 レミルの言うことは、つまりこうだった。
 祖父である叡知王が皇帝の身であるからこそ、この皇城ドーラベルンに居を許されるのだ。ここに残りたければ、次の皇帝にレミルがなるしかない。
 この皇城ドーラベルンは、『皇帝』の城なのだから。
「私の人生は、今までずっとこの王宮と共にあったと言っても過言ではありません。外の世界など知りませんし、だから、伯爵様のような外の方にも当然、興味が沸きます。でも、私は一生をこの薔薇園と共に、王宮と共に送りたいんです」
「ここが、好きなんだね」
 エル・ランゼがそう言った次の瞬間、レミルは顔を両手で覆い、震える声でこう呟いた。
「……だって、この薔薇園とお別れの時、おじいちゃまはもう二度と私に笑顔を見せてくれなくなるんだもの」
 レミルの指の間から、銀光の雫が膝の上に流れ落ちる。
「どうして、……どうして、誰も私を待ってくれないの!! 今度は私、おじいちゃまにも置いていかれる。――この薔薇園の薔薇を美しく咲かせれば、おじいちゃまが喜ぶ顔が見れる。だから、神様がきっとおじいちゃまの病気を治してくれるって、そう信じて頑張ったのに。もう……どうしていいのかわからないよ」
 エル・ランゼはそっと、少女の肩を抱き寄せる。神でもないエル・ランゼには、この少女の願いを叶えてやることなど到底出来はしなかった。
 ただじっと、少女の悲しみを少しでも分かち合えればそれでいいと、抱き寄せるその手に力がこもった。

  ――そして、それから二ヵ月の後。

 南西エグラートの所領へと戻ったエル・ランゼは、皇帝崩御を耳にする。
 同月の五月三十日、皇都レトレアにて、三十年間に渡り帝国を統治した偉大なる皇帝・ノウエル叡知王の盛大な葬儀が執り行われた。
 数日後、皇都に選帝侯会議が召集され、新たにレミルが新ノウエル王として選帝侯に承認された。
 レミルは後に、その美しき金色の巻き毛によって、『ノウエル美髪王』と呼ばれるようになる。
 選帝侯会議は次の帝位を定めぬままに解散し、皇城ドーラベルンは皇帝空位のまま、次の帝位が定まるまでノウエル王家によって管理されることとなった。
 これは皇帝直轄領であるドーラベルンにとって、皇帝家でない選帝侯家がその皇城と直轄領を管理するという、まさに異例の事態であったが、選帝侯会議の際、南西エグラート選帝侯、エル・ランゼ伯たっての要望によりそれが実現した。
 伯は、先の会戦の英雄であり、新選帝侯ながら強い発言力を有していた。
 ……実の所を言うと、次の帝位を巡る争いにおいて、誰もが敵に回したくない相手がそのエル・ランゼ伯であり、ただそれだけの理由で、伯の意見は選帝侯全員の賛成票を獲得したのだった。

 かつて老賢人がそう望んだように、選帝侯会議は新たな皇帝を選出することは出来なかった。

 だが、それでも新ノウエル王は、一人の少女として伯に感謝したという。

 ―― 自分に、父と母、
     そして祖父との、たった一つの絆を残してくれたことを……。 ――